創建そうけんと中興ちゅうこうの祖・寿福院じゅふくいん
日像が開祖、日乗が第二祖
妙成寺は今から700年余り前に、宗祖・日蓮聖人の孫弟子・日像上人を開祖に建立されました 永仁2(1294)年春、日像上人は、日蓮聖人の遺命を受け都への布教のため鎌倉を出立して聖地・佐渡を経て船で日本海を航行中、たまたま乗り合わせた能登・石動山の僧、満蔵法印(日乗上人)と出会いました。
船中で互いに激しく教義論争をしましたが、満蔵法印は日像に論伏され、法華宗に転宗して日乗を名乗ることになります。
2人は七尾で下船し、日乗の案内で石動山に登りました。
日乗が同門僧にも日像を紹介しようと図りますが、そこでは法華宗の教義に大勢が異を唱え、しまいに闘争沙汰に及んで、日像は日乗に伴われて下山しました。
山を降りたどり着いたのが、滝谷の地でした。ここに日像上人を開祖、日乗上人を第二祖として、北陸最初の法華道場・滝谷妙成寺が建立されたのです。
加賀百万石前田家ゆかりの寺
時は下って天正10(1582)年、後に加賀藩祖となる前田利家が妙成寺に参拝した際、武運長久を祈って、領地を寄進しました。その利家が秀吉の命令で、朝鮮出兵のため、九州の肥前名護屋におもむいたとき、身の回りの世話をするために派遣された利家正室まつの侍女「ちよぼ」が後の寿福院です。利家の寵愛を受け、やがてちよぼは男児を出産しました。後の加賀藩3代藩主前田利常(利光)です。
慶長4(1599)年、利家は大坂で病死し、ちよぼは髪を下ろします。ちよぼは寿福院と名乗り、法華経をあげて利家の菩提を弔いました。翌5年には利常と徳川2代将軍秀忠の2女珠姫が婚約し、翌年、2人は結ばれます。最愛の息子の婚儀も果たした寿福院は慶長8年、かねてから信奉していた能登一の法華古刹、妙成寺を菩提所に決め、ひたすら建造物を整え、法悦にひたる歳月を送ることになりました。
慶長10年、利光(利常)は加賀百万石の3代藩主に就き、寿福院は藩主の母となります。一方で寿福院は菩提寺への崇敬をますます篤くし、本堂を建立しました。
しかし、金沢城での安寧の日々は長くは続かず、2代藩主利長が没した慶長19年、寿福院は藩祖夫人だった芳春院(まつ)に代わって、人質として江戸に下向します。法華宗への篤信はさらに募り、その19年に利光(利常)が大坂冬の陣出陣のみぎり、武運長久祈祷のため、寿福院は願主となって妙成寺に三十番神堂を建てました。続いて祖師堂、三光堂などの諸堂、さらには庫裡、方丈などの僧坊も建立、仏像、経巻、法器に至るまで、ことごとく寄進しました。
中でも、元和元(1615)年には妙成寺のシンボルとなる五重塔建立を発願、同4年に完成させ「能登に名刹妙成寺あり」を際立たせました。寿福院の功績は本坊ばかりでなく、塔頭や周辺地域の末寺にも及び、まさに「妙成寺中興の祖」との高名は21世紀の今日まで長らく伝わっています。
寿福院は妙成寺ばかりでなく、諸国の法華宗寺院に建造物建立などで多大な貢献を重ねました。元和4(1618)年には、寿福院が願主となり、身延山久遠寺の五重塔建立に着手し、翌5年には完成させました。奥院祖師堂、拝殿も同様の所産です。元和8年には池上本門寺に逆修塔を建立、寛永5(1628)年には、京都妙顕寺に十一層逆修塔を建立しています。
寿福院が寄進を重ねたその頃の妙成寺トップの貫首は、14世日淳上人が寿福院の兄の上木氏、15世日條上人が甥の上木氏、16世日豪上人が養子、17世日伝上人が甥の栗田氏とそろって親族、親類でした。こうした血縁の濃さからも寿福院の長男・利常の妙成寺に対する思い入れも深く、金員を費やして寺の繁栄を期し、寛永の頃、利常の長女・亀鶴姫(浩妙院)、寿福院が逝去すると、その御骨は妙成寺に納められ、今も立派な御墓が残っています。また、歴代藩主も寄進など多大な支援を行い、ながらく前田家ゆかりの能登の古刹として光を放ってきました。