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加賀騒動そうどう」の大槻伝蔵おおつきでんぞうの墓

「加賀騒動」の大槻伝蔵の墓
「加賀騒動」の大槻伝蔵の墓

江戸時代の三大お家騒動として知られる「加賀騒動(かがそうどう)」で、非業(ひごう)の死を遂げた大槻伝蔵(おおつきでんぞう)の墓(供養碑)です。藩主毒殺未遂や不義密通(ふぎみっつう)というスキャンダルで加賀藩を揺るがした事件ですが、近年、郷土史家らは事件に何らかの関わりがあったと思われる9代藩主前田重靖(しげのぶ)の母・善良院(ぜんりょういん)が大槻らの供養のために妙成寺(みょうじょうじ)に碑を建てたのではないかと推測しています。

【加賀騒動】

加賀藩6代藩主前田吉徳(よしのり)は、足軽の三男で()()()(ぼう)()にすぎなかった大槻伝蔵を側近として抜擢(ばってき)したため、重臣たちには不満が渦巻いていました。 そして、吉徳が病死すると、大槻は「吉徳に対する看病が不十分だった」との理由で蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、越中五箇山(ごかやま)配流(はいる)となりました。

その後、7代藩主宗辰(むねとき)は藩主の座に就いてわずか1年半で病死し、異母弟の重煕(しげひろ)が8代藩主を継ぎましたが、重熙と宗辰の生母浄珠院(じょうじゅいん)への毒殺未遂事件が起こりました。藩内で調べたところ、奥女中浅尾(あさお)の犯行であり、さらに事件の主犯が吉徳の側室だった真如院(しんにょいん)であるとされました。真如院の部屋を捜索したところ、大槻からの手紙が見つかり不義密通の証拠として取り上げられ、一大騒動に発展しました。真如院の身柄が拘束されたことを聞いた大槻は、流罪(るざい)になった五箇山で自害。浅尾は処刑され、真如院も自ら命を絶つ道を選びました。

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